2015年4月27日月曜日

深いところへ

時に私たちはバランスを見失うことがある。動きがあれば"ザッバーン!"はたまにある事(笑

ある時、ある状況で、ただ時間だけが早く過ぎ、変化を感じない事もあるかもしれない。でも本当はどうだろう?

私たちは環境によってフォームを変える液体。何があってもジャッジのないただの液体としてあるとしたら? 私たちは自分の人生にあり、他を通して自己を映し見ている中で、共有したことのある思いやり、気持ち、居場所、時間やお金は、お互いの捉え方にある幻影。

異なるフォームには境界が生じる。例えフォームが違っても本質は同じで、それぞれ自由に変われるフォームとして、何かをどう捉えるかは本人の自由でしかない。どうせならより良い方へ捉えられると自他共に居心地快適な気の中で過ごせますよね。

さて、水になる?大気の一部になる?氷になる?雨になって降る?湖で留まる?川で流れる?海へ行ってまた変化し続け山に行く?

例えば雨。雨の本質である水という液体そのものに対して好きとかキライってあるのかな? 雨に濡れるのが嫌いな人もいれば好きな人もいる。時と状況次第ですよね。でもそれは雨そのものの本質をジャッジしているわけではない。

自分をジャッジしない人は人をジャッジすることもなく、自他が傷く事はない。何かがゆえにもし傷ついたと思っても、それは自分自身の中でそう捉える何かを育んでいるだけかなと。何にもジャッジしなければ、 バランス均衡が取れている静寂フラットである自由な液体フォーム。

そうするとジャッバーンは無いのかな?(笑 私という気はそこにあれるか?

生きている間はずっと学びの途中。月と太陽がつくる潮の干満のような動きの中にいる。時に空へ上がり、舞い降りて、流れて、広大な海へ行っても表面にいたら風が吹けばジャッバーンの一部になり…

完全なバランスは難しいですよね。動きがあるから、自由な心と共にある気として、自身が好きでいられる者としてあれるように学び続ける深く深い中でのフォームがバランスとっていることなのかな…

なんちゃらと海でのメディテーション後にふっと思った事がありました。